雑談

胃ろうをして間もない父が永眠しました。胃ろうは尊厳死を無視しているのか?

投稿日:

胃ろうをして間もない父が永眠しました。胃ろうは尊厳死を無視しているのか?

1月2日の夕方、父が永眠しました。

昨年9月から嚥下障害が悪化し、あまり食事が摂れなくなり、なんとか側臥位にて頑張っていましたが、12月7日に主治医の元へ転院した翌日に何度目かになる誤嚥性肺炎を起こし完全に口からの食事が無理になり、12月25日に胃ろうで有名な先生のいる病院へ移り胃ろうを受けました。

その後、経過は順調で1月8日には再度主治医の元への転院が決まっていた矢先のできごとでした。

そして、私は完全に家族を亡くし、天涯孤独となりました。

今日は介護生活の本音や胃ろうのこと、今の思いをお話したいと思います。




介護生活は苦しかった

父が要介護となったのは、2010年に二度目の脳梗塞を起こした後でした。

退院したのは2010年の12月24日。

左半身麻痺が残りました。

そこで、ケアマネジャーが付き、一応介護が始まりました。

ですが、当初は介護度も低く、一度は要支援にまでなった程度だったため、私はわがままを言い、2011年3月末から2011年12月20日まで韓国へ留学しました。

本当はいけなかったと思います。

いくら要支援が低くても。

でも、まだ料理も出来ていたし、デイサービスを週2回利用することで大丈夫でしたし、当時のケアマネジャーがたまに様子を見に来て下さることでお願いして通したわがままです。

そして、帰国後に介護生活が始まったのですが、10ヶ月日本を離れていた私が直面したのは物忘れが酷くなった父でした。

留学中も9月に1週間ほど一時帰国していましたが、その時には異変は気づきませんでした。

韓国滞在中は毎日メールで連絡し、たまに電話をしていましたが、父は何も言いませんでした。

ですが、帰国後父は、私が預けていた銀行のカードを紛失したと言いました。

その時に、父は最近物忘れがひどく、なくし物が多いと言いました。

その後、近くの大学病院に物忘れ外来があったのですが、アルツハイマー型認知症と診断。

ただ、ここで問題がありました。

その場合、通院は家族が付き添う必要があります。

しかし、この頃の私は喘息を発症しており、外出困難な状態でした。

そこで、行かれる時はついて行きましたが、何度かは一人で通院して貰いました。

そして、数ヶ月後に再度認知症の検査をして貰ったところ、今度は認知症の判定が出ず。

とりあえず、軽い安定剤だけ出して貰っていました。

その後、2015年8月末に横浜から現在のところへ引っ越しました。

縁もゆかりもない地ですが、それでも引っ越しを決めた理由は父も坂や階段ばかりの生活が厳しくなってきたこと。

そして、私が重度の喘息で少し外に出るだけでひどい発作を起こす状態だったので、やはり外出が厳しくなっていたためです。

喘息になってから一度父とハワイへ行ったのですが、この時は喘息発作は一度も起きることがなく、成田へ到着し外へ出た瞬間に発作が起きました。

これで、空気によって喘息の状態が随分変わることがわかっていました。

そこで地方への移住を考えた時、当初は父の故郷を考えていましたが、内陸部で雪の量も多く、また交通の便も悪く、近くに病院もないという田舎ぶり。

うちは、父は二度目の脳梗塞後、仕事を辞めるとともに免許証を返還していましたし、私は免許がないし、なによりメニエール病があるため基本は徒歩かバスなどの公共交通機関が頼りになります。

なので、父の故郷は無理。

そこで見つけたのが現在のところで、父の故郷と高速利用で2時間ほどの日本海側。

海が近いので風が強いですが、雪は内陸部より少ないです(と言っても横浜生まれの私にはかなりの大雪ですが)

平坦地でスーパー、コンビニ、ドラッグストア、金融機関、病院は徒歩数分のところにあります。

市役所へも少し距離はありますが、歩ける距離です。

自転車に乗れれば主要なところへは行かれます。

本来なら、これで楽になるはずでした。

横浜のように坂や階段を上れなくて片道タクシーで病院へ行く生活。

スーパーへは父が頑張って行ってくれていましたが。

ここなら、楽に暮らせると思ったのもつかの間、待っていたのは私の肺の腫瘍の発見と悪夢のような父の介護関係のトラブルでした。

新しい病院なので全身検査した時に見つかった私の右胸の肺の腫瘍。

発見が年末だったため、年明けから3ヶ月半ほどは毎週検査。中には検査入院もありました。

悪性か調べるために、PET検査を受けに隣の市までも行きました。

暫定結果が出たのが3月末。そして、恐らく良性だろうと言われたのが5月末(内視鏡で届かない場所で十分に取れなかったため)

そして5月5日の私の誕生日に父とトラブル。

その後、父が警察へ嘘をついて保護を求めちょっとブログでは書けないようなことがありました。

1月ほど父と引き離され、私は理由もわからず、福祉関係者から様々なことを言われました。

かなりの差別もありました。

地域包括センターもひどく、私は味方もいない、誰も頼れない状態に。

結果、父の証言が嘘だとわかり、父は帰ってきましたが、その時の私はショックから失声症になりました。

その後は、ぎくしゃくしながらも父と暮らしていましたが、ケアマネージャーは最悪なまま。

そんな中、父に集金のお金を玄関に置いておくからと言ったところ、猫がイタズラするからと動かし、結果紛失しました。

再び認知症を疑い、主治医のところで認知症のテストをして貰いましたが歳相応の物忘れとの結果。

ただ、火の消し忘れ、お金は一切預けられない状態でした。

それでも、デイサービスを利用してなんとかなっていたのですが、その年の暮れに父が腰を圧迫骨折したことで事態は急変。

デイには通えないのでヘルパーさんをお願いしたくてもケアマネージャーは動いてくれないため、無理して自分でやりました。

ですが、仕事もありながら、毎週病院へ連れて行くのは介護タクシーを利用するとはいえ、私は休みがなくなるし身体がもたず付き添った病院で何度も倒れ、ケアマネージャーを変えました。

その後のケアマネージャーは本当によくしてくれましたが、そのケアマネージャーに変わるまでの福祉の悪夢で地元の人を信用できない状態に。

そして去年2月にインフルエンザと誤嚥性肺炎の併発で入院した時は、最悪の覚悟をしてくださいと医者に言われました。

その病院は2週間ほどで入院しましたが、退院後主治医にかかるように言われていたので行ったところ肺炎を起こしており、その場で入院。

要は、肺炎が治っていない状態だったそうで、その時も覚悟はするように言われました。

でも、なんとか頑張り4月末にはリハビリ病院に転院し、8月には退院に向けて動いていました。

この時は正直、辛かったです。

退院後、小規模多機能がいいというのでその見学、そして申込み。

それと平行し、父の障害者手帳の申請と、退院後の食事の指導を受けに病院へ。

軽い熱中症を起こしながら動いていました。

結果、小規模多機能は私の仕事を理由に却下。今度はミキサー食対応のデイケアを探して貰っている中、父の悪化と私が完全に倒れました。

その後は父の病院へ行くのは週1になりましたが、それでも行った病院で倒れたり、帰る途中に倒れたり意識朦朧としたりという状態。

結果、喘息も悪化し、主治医には今日だけでもいいから入院しろと言われましたが、猫の餌があるので外来で点滴だけを受け帰宅。

その後はめまいも頻繁に起こすし、薬を増やしてもらい、それでもダメな時は外来で点滴を受け、それでも熱で寝込み。

ただ、側臥位での食事を見に行く予定の時に風邪で熱を出し、行かれなくなった時はかなり言われました。

入院患者さんに移す危険があるので自粛している中、まだ来れないのかとの催促。

この時は相談室に話し、その後熱が下がった後師長に話し改善はされましたが、私は精神的に限界で、猫を外に出して死ぬことも考えるほどでした。

その後、父はどんどん悪化し、12月に口からの食事が無理になり胃ろうをするかどうかの選択を迫られました。

胃ろうを決めた理由

最近は尊厳死がブームのようになっていて、胃ろうは尊厳死を無視しているという意見が多くなっています。

ご近所にも、数年前に胃ろうを受け、退院したものの退院後一週間で亡くなったという話を私も聞いていました。

なので、正直、主治医(リハビリ病院から戻っていました)にこのままだともって3〜4週間と言われたとき、胃ろうの選択を迫られました。

もちろん、胃ろうをしたからといって助かるという保証はなかったです。

ただ、わずかながらに可能性はありました。

主治医も胃ろうに関しては、普通なら勧めないと。

私も迷いました。それは本当にいいのだろうか、と。

しかし、父は食事ができない状態ではありますが、癌があるわけでもなく、栄養状態が改善されれば後数年は生きられる可能性がありました

主治医も、父の身体のことは知っているので、かけてみようと決意しました。

とはいえ、父は意識もはっきりしているので、本人の希望が優先となります。

このとき、主治医に父は、「そこまでして生きたくない」と言ったそうです。

でも、私がその前に最悪胃ろうになると話したときは胃ろうを受けると言っていたので、もう一度父に確認をしました。

その時父は、「受けるよ」と言いました。それは、私のことを思ってのことかもしれません。

私はまだ父を失いたくないと思っているのを父は知っていましたから。

でも、父が受けると言ってくれたことで市内に胃ろうで有名な先生がいるということで、手術のため転院。

12月25日に胃ろうの手術を受け、26日から胃ろうを開始しました。

その時、大雪が降り、歩いて行くには不可能なため私は術前の24日と、術後は30日に父のところへ行きました。

私がフォトブックを作ったのは、いつどうなるかわからない父のためでした。

父が楽しかったと言った2011年2月の私の韓国の親友のところへ行き、韓国内を旅行した時のこと。

そして2013年に私の昔からの願いが叶って連れて行ってあげたハワイ旅行(食事などは父が出してくれましたが)

それが父にとってすごく良い思い出だった。また行きたいと言っていたので、せめてフォトブックでと思い作り持っていきました。

胃ろうを悪く言わないで欲しい

世間では胃ろうはまるで悪のように言われています。

尊厳を無視していると。

でも、本人が希望し、癌など他に命に関わる持病がなければ、胃ろうをしてもいいと思います。

胃ろうした人のその後は、高齢者でも数年は生きられるそうです。

若くして胃ろうになった人や、それなりの歳の人でも父ほど高齢でなければ、リハビリ次第で胃ろうを辞めることができる人もいます。

もちろん、絶対ではありません。

でも、この世に絶対なんて手術はないですよね。

検査でさえ命を落とす人がいるんですから。

だから、胃ろうは尊厳を無視しているとか、悪のように言わないで欲しいと思います。

胃ろうをしても生きていて欲しいと願う本人も家族もいます。

その人たちを傷つけないで欲しい。

人って、実際その場になってみないとわからないことって多いですよね。

胃ろうも同じです。

私だって、父の身に起きるまでは胃ろうはしなくていいとさえ思っていました。

でも、実際、その決断を迫られたとき、生きられる可能性として選びました。

胃ろうを選んだ人はきっと同じ気持ちだったと思います。

人工呼吸器が必要な人がいる、人工透析が必要な人がいる。

胃ろうもそれと同じだと思います。

人工透析を受けなければ死んでしまう人も、透析を受けることで生きられます。

全く同じことです。

突然の死

12月30日に私が行った時は、父は大丈夫でした。

普通に話しをし、副作用など出ていないか聞いたところ全くなにもないと。

そして、雪のため私の帰宅を心配してくれたので40分ほどで帰ろうとした時、手を握ってくれて「大丈夫だよ」と言ってくれました。

これが、私が生きている父に会った最後です。

1月2日。午後5時くらいに、パソコンのメンテナンスしていると病院から連絡があり、父の呼吸が止まっているのを発見し蘇生をしているが反応がない、と言われタクシーでかけつけました。

電話を貰ってから15分ほどで病院に行きましたが、その間も蘇生は続けられていました。

看護師や担当医に聞いたところ、当日午前の回診では熱もなく胃ろうは順調でポータブルトイレに移るリハビリをしていたそうです。

そして、父の呼吸が止まっていることに看護師さんが気づいた30分前までは他の看護師さんと話をしていたそうです。

胃ろうが合わなかったわけではなく、痰が喉に詰まったわけでもなく、なにか炎症があるわけでもなく、担当医は理由が不明と言っていました。

つまりは、老衰。

私はその言葉を疑っていません。

1月8日には主治医の元へ転院というのが決まっていましたし、数日前には胃ろうを受ける前よりはっきりした声で話していたし、握ってくれた手はとても力強いものだったから。

そして、看護師さんや医師もびっくりしているのが伝わってきたから。

看護師さんも医師も「少し前まで元気に話してたのに...」と。

なので本当に老衰だったのだと思います。

実際、死に顔はとても穏やかで、というか半目開いている状態だったので、きっと一瞬で止まってしまったのだろうという顔でした。

苦しんでいる顔ではなかったから。

結果、胃ろう後8日で父は亡くなりました。

胃ろうを後悔していないか、と聞かれたら100%後悔していないとは言いません。

ほんの少し、内視鏡を入れてまで胃ろうしなくてもよかったのかな、というのはあります。

だって結局、胃ろうをしてもしなくても変わらなかったから。

それでも、実際には胃ろうは順調にいっていたから、天の定めた寿命には勝てなかっただけで。

とはいえ、男性の平均寿命はもう超えていましたし、タクシー運転手に長生きの人は少ないそうです。

理由は煙草の煙や不規則な生活。

父は私が2歳の頃に個人タクシーになりましたが、奔放な母のため、朝早くから夜遅くまで働いていました。

実際、父の周囲の人を見てみると、父と同年代の人は皆他界しています。

主治医は、今年インフルエンザになる前までどこも悪いところがない、胃も綺麗だと言っていましたから相当強い人だったのでしょう。

私にとって父は普通の父親以上の存在でした。

私がメニエール病で退職し、10年間の寝たきり生活を支えてくれたのは父です。

メニエール病発症後に、併発したパニック障害もあり、外もまともに歩けない私を近所のショッピングモールまで連れ出してくれたのは父です。

そして、肺の腫瘍発見後、ハードな検査スケジュールにも関わらずいつも付いてきてくれました。

PET検査のときは一日がかりになるのがわかっていたので、父には大変だと思い、私は一人で行くと言いましたがそれでも来てくれました。

私が病気をしてから、風邪でさえ付き添ってくれました。

一人で病院へ行ったこともないわけではないけれど、少ないです。

それくらい私の身体を心配してくれていましたし、それによる私の苦悩も知っていました。

だから、最期まで私の心配をしていました。

そのことはすごく申し訳ないと同時に感謝しかありません。

一時期は父に反発したり、うまくいっていかなった期間も年単位でありますし、こちらへ来てからの事件もあります。

介護は本当に辛くて父に「もう嫌だ」と言ったこともあります。

でも、秋以降は、今の私にできる限りのことは精一杯して、父の意向を可能な範囲で叶えたいと一生懸命でした。

後悔なんてたくさんあります。

こちらへ来てから父と行きたいと言っていたところに行かれていないから。

行こうとした矢先に圧迫骨折してしまったから。

なんとか父が頑張れそうになった頃は、私が忙しかったりメニエール病の再発をしてしまったり。

だから、自分が健康だったらと思うと悔しいです。もっとしてあげられることできたのに、と。

それでも、父の死をケアマネージャーに伝えたときは、「自分も身体悪いのに、本当によくやっていたと傍からみて思いました。一生懸命やったね」と言っていただけました。

父が亡くなる前に、父に謝ったことがあります。こんな身体でもっとしてあげられなくてごめんね。

もっと病院来たいのに、回数少なくてごめんね、と。

それに対して父は、「十分やって貰っているよ。俺は幸せだよ」と言ってくれました。

だから、それで少し自分を慰めています。

今後の自分

父が亡くなり、天涯孤独になりました。

母は既に他界しているし、父も私も一人っ子のため、親戚というのは遠い親戚しかしない(それも2人しかいない)

そして私は俗にいう結婚適齢期のときに病気になり、その後は介護があったので結婚なんて考える余裕がありませんでした。

なので、「家族」というものはもういません。本当の一人きりです。

正直、火葬場では私も一緒に入りたいと一瞬ですが思いました。

でも、父はそれを望んでいないと思っています。

私が少しでも元気でいることを願っていると思います。

正直、今後どうなるのか全くわかりません。

場合によっては家を手放す必要があるかもしれないし。

不安しかないし、どうやって生きようかさえわからない。

父が死ぬ前は、いろいろ考えていたのに。

ただ、今後、自分が望まないことが起きて泣いたとしても、ただ生きようと思います。

病気ばかりの身体で一人で生きていくのは不安しかないです。

夜中に発作でどうかなる場合もある。

それでも、なんとか生きることだけ考えようと思っています。

今は眠れないし、食べることもできないけれど、これは少しずつなんとかなるとわかっているし、それでも残る悲しさは何年たっても消えないとわかっているけれど。

父があの世でする心配が一つでも少ない生き方をしたいと思います。

長々と私事を失礼しました。

ここまで読んでくださった方がいましたら、感謝致します。

ありがとうございました。

スポンサーリンク






-雑談

Copyright© Synkers.net , 2019 All Rights Reserved.